女装少年Aと彗星人Rの仮説/サンプル - 安住味醂
ラクサさんが僕の手を取って、トイレの個室に入る。引きずられるように、僕も後に続いた。狭い個室に、僕とラクサさんの二人きり。僕はその状況に胸が高鳴り、顔に熱が集まっているのが手に取るように分かった。恥ずかしさで胸がいっぱいになる。一方、ラクサさんは僕の格好を爪先から頭の天辺まで何度も見て、「カイワイ、カイワイ」と連呼している。その顔はにやけていて、とても楽しそうだ。僕は逃げたくなった。けれど、ラクサさんがそれを許さない。僕を扉から離すと、すかさず後ろ手で鍵を閉める。がちゃん、という音が響き、僕は背筋が冷やりとするのを感じながら、目の前にいるラクサさんを見る。ラクサさんは笑みを浮かべながら、僕に一歩迫る。狭いトイレの中では、逃げ場なんてない。僕の手が壁に触れる。ラクサさんは便器の近くに立ち、僕を扉のほうへ追いやる。じりじりと距離を詰めてくるラクサさんに、僕は怯えることしかできない。ラクサさんがにやにやといやらしい笑みを浮かべた。
僕とラクサさんの距離は、ほとんどゼロになってしまった。僕を見つめるラクサさんと目が合い、僕が目を逸らすとラクサさんがくすくすと笑い、僕の体に手を這わす。腰を撫で、太ももをいやらしい手つきで撫でる。その手は徐々に上へ上がっていく。お尻、へそ、お腹、胸、そして頬に辿り着くと、ひと撫でして、手を添える。両手で僕の頬を包み込むと、嫌でも僕はラクサさんを見てしまう。彼女は恍惚とした表情で僕を見つめている。
「本当ニ、カイワイ」
目を細めて、彼女はそっと、僕の唇に自分のそれを重ねた。
眠れる森の二人/サンプル - 安住味醂
双子の妹の美弥は、側に誰かがいないと眠れないという睡眠障害を持っている。誰かの添い寝が必要なだけなので、僕は一度も不便に感じたことはない。
電気が消えた部屋で、僕と美弥は一緒のベッドにもぐる。二人が横になってもスペースが余るくらい大きなサイズのベッド。子どもの頃は大きすぎて、毎日のようにごろごろと転がって遊んでいた。でも、今はそれもできなくなってしまった。
「ねぇ、睦美」
美弥が僕を呼ぶ。
「何? 美弥」
暗い中で、美弥は天井を見上げていた。僕は美弥を見た。
「寝ようか」
美弥が言った。
「そうだね」
そう僕が答えると、美弥は布団を頭までかぶった。僕も続くように布団をかぶり、目を閉じると、隣にいる美弥がごそごそと動く音が聞こえた。美弥は僕の腕を掴むと、腕を抱きかかえるようにして、僕に擦り寄ってきた。いつものことだから、それを振りほどくなんてことはしない。美弥は安心したのか、寝息を立て始めた。それを聞き届けた僕は、眠りにつくことにした。
水面に浮かぶは/サンプル - にけ様
海の月とはよく言ったものだ。海の中にぽっかりと浮かぶその丸い様はまさしく月のよう。後腐れもなく消えてしまうのならそれもいいかもしれない。誰にも認識されないまま、大勢の人間の中でひっそりと消えて、誰にも気づかれないままひっそりと消えて。
高校二年の春。教師が私たち生徒に急かすように配り提出を求めるのは、将来の夢を示唆するもの、進路希望調査だった。その紙をもらった日の放課後、ホームルームが終わり騒がしくなる教室から一人、また一人とバイトやら部活やらで減っていく。ぼんやりとその紙を眺めているあいだに時間は経っていた様で、気がついたときに辺りを見回すともう教室の中に人は私以外いなかった。窓の外は綺麗な橙で染まっており、外だけでは物足りないとでもいうように教室も一面に橙に染まっていた。ぼんやりと眺めていた紙を改めて目に入れる。髪もすっかり橙に染まっているようだ。学年、クラス、出席番号、名前。その下にもう突然に出てくる質問、いや問は『希望している職業』だった。もう小学生や中学生のときみたいに、『将来の夢』なんていう言葉では表さない。夢など言っていられるほど、子供気分ではいられないということだろう。
「嫌だなあ」
ピンク色のシャープペンシルを手に取る。ドクターグリップ製のそれは手にぴったりとはまり、まるで書き終わるまで離すなとでも言われているみたい。私は、『希望している職業』と書かれている下の空白に二つ、文字を書いた。A6の小さい紙にそれだけを書き、私は鞄を机の上に乗せ、帰る支度を始める。教科書を入れ、筆箱を入れる。そして机の上に置かれた先ほど書いたばかりだった紙を乱雑に鞄の中に突っ込む。そしてさあ、帰ろうと立ち上がろうとしたとき、教室の扉が開いた。もちろん一人手に開くわけはないので、廊下の方から人が入ってくる。
「あれ、神崎まだいたの」
「……遠藤」
入ってきたのは、私の前の席の遠藤だった。私と違い、人気のある遠藤にはいつも周りに人間がいた。クラス替えで一緒になるまで面識も何も無かった私たちだが、同じクラスになった初日に遠藤の方から話しかけてきたのだ。それからは仲がいいとは言えないが、全くの他人でもないというとても曖昧な境界線の関係を彼とは続けている。
感情融合過程とその結果/サンプル - にけ様
彼の手の中にあるカッターナイフとそれを持っている手とは反対の手の首から滴り落ちる紅い液体を、僕はもう何度見ただろう。彼の親指くらいの大きさの僕には、その行為を止める術など知らなかった。
「こんにちはっ」
始まりは、白い机の上だった。彼はその時も眉間に皺を寄せていて、僕を見つけた途端、余計に皺が深くなったようだ。僕はそのことに気付かない振りをして、周りを見渡した。そこは必要最低限のもの以外は置かれていない部屋で、僕はなんて簡素な部屋なんだ、と感じたことを覚えている。
僕は彼の本来あるべきプラスの感情を象ってできている。夢、希望、嬉しさに楽しさ。すべての感情を僕が感じられるということは、彼の中にはそういった感情はないのだろう。憎しみ、悲しみ、憤りに絶望。彼の中の世界はきっとそういったマイナスの感情で構築されている。
人間には本来、プラスになる感情とマイナスになる感情が天秤に釣り合うようにできている。一時は片方に傾いたとしても、また時が経てばもう片方に傾くようになっているのだ。
しかしまれに、完全に天秤が釣り合わなくなる人間が出てくる。それが彼、だ。彼のような人間の場合、感じる感情が大きすぎて天秤が許容オーバーを起こしてしまいどちらかの感情が完全に消えてしまう。というより、存在してしまう。それが僕、だ。
「僕は君の事、なんでも分かるよ。もう独りで苦しまないで」
ある種の常套文句を並べ、僕は彼を見る。簡単に言うと、彼は僕というわけだ。もちろんこれは口には出さないけれど。
「お前がなんなのか知らねえけど、俺にはいらない」
いきなり現れた僕に驚くでもなく、ただ忌み嫌う視線をこちらに寄越して呟く彼に、僕は作り笑いを浮かべた。
笑顔/サンプル - ゼン太
「あ、昨日の十二時ごろメールしたんだけど」
引き戸を開いて、扉のすぐそばの最後尾の席に鞄をおく。
久野は鞄をその二つ前の席につき、鞄の整理を始めた。
机の中に忘れていた携帯電話をとりだして、ぱかりと開く。
メール一件。久野のいうものだろう。他愛のないグチが短くつづられていた。
「あの、すみません!」
淳が久野の元へたとうとしたとき、黒髪の女生徒が淳の制服をつかんだ。
淳は彼女を見て息をのむ。
一年生のバッジをつけた、髪を肩口で二つにまとめた彼女は、昨晩渡り廊下から見たずぶぬれの少女だった。
彼女はまんまるな黒い目をまっすぐに淳へと向けて、一年七組の金谷佐奈と名乗った。
「唐突で申し訳ありませんが、携帯を見せてくれませんか」
予想外の出来事に瞬きをし、淳は手元の携帯電話に視線を落とす。
一方的にこちらから目撃こそしていたものの、初対面の人間に見せろと言われて見せられるものでもない。
答えあぐねている淳を見かねたのか、金谷佐奈は口を開いた。
切り札をそっと出すような、芯の通った声だった。
「あの、先輩とりましたよね、昨晩、私の写真」
「いいや、知らない。俺は昨日携帯をここに忘れてた。確かに道中、君を見かけはしたけど……まあ証拠になるならどうぞ」
携帯の待ち受け画面が彼女に見えるように傾けて、淳はデータフォルダの写真一覧を開く。
最新のものは、確か近所の犬を撮ったものだったはずだ。
それなのに画面の左上には見覚えのない暗い写真が存在していた。
どきりと心臓が跳ねて、指が止まった。
佐奈がこちらに目を向ける。まさか、これは違う、きっと何か別のもの。
そう信じて真ん中の決定ボタンを押した。
画質は荒いものの、画面中央で映し出されているのは彼女だった。水に濡れて透けたセーラー服、ふとももを滴る水、ほどかれた黒い髪。記憶をそのまま画像にした写真。狐に化かされた気分で、少女と視線を交わす。少女はにいと口の端を歪めて、一度鼻で笑った。
「ほら」
ほら、って。
教室に鍵はかかっていて、だから誰もあの時間に撮れるはずなんてない。
だとしたら、いつ、どうやって撮られたものなんだ?
混乱して動かなくなった淳の手から携帯電話を取り上げ、佐奈は何か操作をした。
数秒でそれは終わり、にっこりと太陽の輝くような笑顔を浮かべて、淳に携帯電話を差し出した。
「先輩、受験生でしょう。告げ口はしませんが、そのかわり」
広げられた手のひら。五本の指がすらりと伸びている。
その意図を察したとき、淳は自分がわけのわからない悪意に巻き込まれたということを理解した。
樋口一葉を一人、財布から失った淳はその日ずっと上の空だった。
確かに久野とちがって、それなりに規則を破ったりサボったりして生きてきたが、ここまでされる筋合いはない。
だれかから恨まれる覚えもない。
あまりにも場違いにかわいらしい佐奈の笑顔がよみがえる。
「せっかく可愛かったのに」
***
夏場に床に寝るのは苦にならない。
横になってタオルを羽織り、淳はベッドに背を向けた。
薄暗闇の中で、じっとりとした視線が背にささる。妙なことをするなら、その現場をおさえるつもりだった。
どのくらいたったかはわからない。
時計の針がときを刻む音が眠気をもたらしはじめたとき、ぎしりとベッドが軋み、床を踏みしめる音がした。
足音は徐々に淳に近づき、そして柔らかい肌がタオル越しに触れた。
「なっ、」
流石に体を起こして佐奈を見やる。彼女は寝そべる淳に跨がっていた。
表情は伺えないが、彼女がごくりと唾を飲む音だけがする。
「何のつもりだ」
我ながら情けなく震えた声。
淳が動けないように太股で腕を固定したまま、佐奈はかがんで頭を淳の首もとに近づけた。
「十万で、――やってもいいですよ」